明知遠山氏

明知遠山氏は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派で、宝治元年(1247年)、明知遠山氏の始祖・遠山景重(源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)が明知城を築き、代々守護してきました。

 

戦国時代の遠山一族は美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、遠山七家(遠山七頭)と称され、その内の岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏を三遠山(遠山三頭)と呼ばれていました。

 

天正2年(1574年)、武田氏の侵攻で明知城は陥落しましたが、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で遠山利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻りました。

 

しかし、天正10年(1582年)、本能寺の変後、羽柴秀吉についた森氏が東美濃を制圧、明知城は和睦により森氏に渡り、利景は家康に従いました。

 

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦での功で、利景は旧領回復を成し遂げ6531石の旗本となり、その子孫は領主として幕末まで続きましたが、元和元年(1615年)一国一城宇令のため明知城は廃城、代わりに山下に陣屋を置き、遠山氏は江戸に在住しました。

 

12代遠山景高は安芸守となり、ペリー来航時の浦賀奉行を務めました。

 

また、時代劇でおなじみの遠山の金さんこと遠山景元は、明知遠山氏から分家した遠山家であり明知遠山家の末裔になります。

 

明知遠山家の菩提寺・龍護寺には遠山氏累代の墓所があります。

 

(画像は、龍護寺にある遠山家家系図、累代の墓所、明知城本丸跡、明知陣屋跡)

 

 

 

 

IMG_1847IMG_1848IMG_1851IMG_1849IMG_1850IMG_1200明知陣屋跡(代官所)