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史跡・歴史探訪コース
大正村駐車場
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大正路地
いまもなお大正時代のたたずまいを色濃く残す路地です。
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金弊社八王子神社
平安時代の天暦3年(949年)に創建された1000年を超える歴史を持つ郷土の産土神
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龍護寺
遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔などがあります。
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明知城址
明智城は宝治元年(1247年)明智遠山氏の始祖・遠山景重によって築城されたと伝えられています。
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天神神社
明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したといわれています。
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お牧の方墓所
非業の最期を遂げたといわれている明智光秀公のご母堂、お牧の方の墓所と言われています。
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千畳敷公園
鎌倉時代に明智城とともに築かれた千畳敷砦を整備した公園です。
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大正村駐車場
大正村おすすめ散策コース
大正村駐車場
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大正路地
今もなお大正時代のたたずまいを色濃く残す路地です。
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大正村役場
元役場を利用した施設で、資料館兼休憩所となっています。
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大正ロマン館
大正のモダンなイメージをした洋風建築で初代日本大正村村長高峰三枝子氏、同村議会議長春日野清隆氏の記念館です。
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旧三宅家
300年を超える歴史を持つこの旧宅は、明智町の馬木地内にありました。
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大正村資料館・大正の館
当時の生活を感じることができる資料を展示しています。
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うかれ横丁
中馬街道・うかれ横丁
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大正時代館
大正時代にこだわった資料館です。
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大正村浪漫亭
旧いけれど新しい、、、レトロモダンな大正村浪漫亭
明智太鼓
明智太鼓は、一名「スリコギバチ」といわれる一種独特なバチで豪快に舞い踊りながら打つ太鼓が特徴です。
軽快なリズムで金属製の音で奏でる金銅太鼓と、柔らかい旋律を流す竹笛で構成され、その異なる3つの音が絡み合い、聞く人々の心に迫り、感動を呼び、伝統太鼓の神髄を見ることができます。
明智太鼓のはじまりは大正時代、三河出身の人たちが、現在の愛知県豊田市(旧東加茂郡旭町)に存続し八幡神社で奉納されていた太鼓を明智に移入する計画を立てました。
当時の明智の八王子神社では、岡崎神楽が奉納されていましたが、それに勝る太鼓が欲しいと人々は奔走しました。その甲斐あって、器具は借り物でしたが、境内に初めて太鼓が響き渡ったのは、大正の末期のことでした。
その後、町の有力者たちの協力もあり、串原の中山太鼓の影響を受けながら、明智太鼓特有の姿を編み出しました。
現在は、明智太鼓保存会が曲の保持、後継者の育成と郷土芸能伝承活動に努めています。
また、毎年10月の八王子神社例大祭では、町内3地区約300人が境内にて手踊りと明智太鼓を奉納しています。
金幣社八王子神社
八王子神社の創建は天暦3年(949)です。天照大神の8人の王子(王子5人、王女3人)の分霊をこの地に祭ったのが始まりとされています。以来、周辺地域の中心的な神社として信仰を広げ、最盛期には明智・串原・高波・浅谷など2千石の社領を擁していたようです。
現在の社殿は延宝4年(1676)、4代領主遠山伊次が造営したもので、本殿、幣殿、拝殿が一体的に構成されている権現造であり、江戸時代初期の社殿建築の遺構として貴重なことから昭和50年(1975)に岐阜県指定文化財に指定されました。
境内には明智光秀が建立したと伝えられる柿本人麻呂神社と光秀が手植えしたとされるカエデや、縁結び、子宝、夫婦円満の御利益があるとされる幹の繋がった大杉があります。
例大祭(献幣祭)は毎年10月上旬に行われ、明智町では秋祭りとして子供から大人まで、町内3地区約300人が境内にて手踊りと明智太鼓を奉納しています。
徳平古墳・久後古墳
徳平古墳・久後古墳
明智には、盆地に面した西側丘陵の上に、北から南に4基(経塚古墳、若王子古墳、徳平古墳、久後古墳)の小円墳が並んでいます。
これらの古墳は、明智町の農業社会を作りだした、それぞれ別の家によって作られたものだと考えられており、いずれも7世紀中頃のものだと考えられています。
この頃には少なくとも4戸の古墳を作ることができるような有力な家が存在していたことが分かります。
ここでは保存状況の良い徳平古墳、久後古墳について紹介します。
徳平古墳
向町字徳平の町中心部に臨んだ丘陵の突端にある円墳です。
直径11.5m、高さ2.2m、墳丘の中心部には40cm~50cm大の山石を用いた銅張りのある細長い墓室が作られています。
墓室は長さ3.3m、幅1.9m、高さ1.75mの大きさで、床には平石が敷き詰められていました。
この墓室には、残っていた人骨の状態からみて、少なくとも4体の死者の埋葬が想定されています。それぞれの死者の周りには、供献のための武器や土器類が副葬されていました。
郷土を開いた先祖の様子が確認された数少ない古墳遺跡の1つです。
久後古墳
向町字久後の町中心部に面した丘陵の上にあって、すぐ北側の滝坂川を隔てて徳平古墳と向き合っています。
この古墳は、直径8.5m、高さ2.7mの円墳で、内部には徳平古墳と同じく、山石を積み上げて作った墓室があります。
この墓室は徳平古墳よりやや大きく、長さ4m、幅1.9m、高さ1.7mで、墓室の入口は花崗岩の板石で閉鎖されていました。
この古墳の墓室から出土した遺物はきわめて少なく、遺骸もすでになくなっているので、何体の死者を葬ったかは不明です。
これらの古墳は、古墳時代後期の小円墳ですが、数少ない貴重な遺跡として大切にされています。
※大変分かりづらい場所にあります。行かれる際は明智振興事務所(0573542111)か大正村観光案内所(0573543944)で事前に道順を確認されることをオススメします。
(画像は上から、徳平古墳3点と久後古墳2点です)
明知城址(白鷹城址)
明知遠山氏
明知遠山氏は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派で、宝治元年(1247年)、明知遠山氏の始祖・遠山景重(源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)が明知城を築き、代々守護してきました。
戦国時代の遠山一族は美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、遠山七家(遠山七頭)と称され、その内の岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏を三遠山(遠山三頭)と呼ばれていました。
天正2年(1574年)、武田氏の侵攻で明知城は陥落しましたが、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で遠山利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻りました。
しかし、天正10年(1582年)、本能寺の変後、羽柴秀吉についた森氏が東美濃を制圧、明知城は和睦により森氏に渡り、利景は家康に従いました。
その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦での功で、利景は旧領回復を成し遂げ6531石の旗本となり、その子孫は領主として幕末まで続きましたが、元和元年(1615年)一国一城宇令のため明知城は廃城、代わりに山下に陣屋を置き、遠山氏は江戸に在住しました。
12代遠山景高は安芸守となり、ペリー来航時の浦賀奉行を務めました。
また、時代劇でおなじみの遠山の金さんこと遠山景元は、明知遠山氏から分家した遠山家であり明知遠山家の末裔になります。
明知遠山家の菩提寺・龍護寺には遠山氏累代の墓所があります。
(画像は、龍護寺にある遠山家家系図、累代の墓所、明知城本丸跡、明知陣屋跡)
明智光秀
本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。